江戸時代のはじめ、寛永3(1626)年9月6日。
人々が「平和」を実感し、
「文化」が花開いた瞬間がありました。
戦国の世を乗り越え、
日本各地から大名が京都に集合し、
徳川幕府が威信をかけて、
天皇を5日間にわたってもてなした一大イベント!
それが、「二条城・寛永行幸」です。
それから400年の節目となる2026年に、
「平和」や「文化」を考える祭典
「二条城・寛永行幸四百年祭」を、
京都で開催します。
戦に明け暮れた戦国時代が過ぎ、大坂の陣から11年後の寛永3年9月。大御所(2代将軍)・徳川秀忠と3代将軍・徳川家光の招きに応じて、 後水尾天皇が徳川将軍家の京都の拠点である二条城へ行幸されました。
天皇が御所を出るということ、ましてや武家の城に出向くなどということは当時の常識では非常にまれな、驚くべきことです。
時代の節目に、朝廷と幕府がここで手を携えたことは、この先200年以上にわたって続く江戸時代が安寧の世であることを予感させた出来事だといえるでしょう。
当時の一大イベントであった寛永行幸については、詳細な記録が残されています。その様子をうかがわせる絵画資料のひとつに「二条城行幸図屏風」(京都市指定文化財 泉屋博古館所蔵)があります。
ここでは御所と二条城の間を、公家や武家が行列をなして進み、たくさんの民衆が見物している様子が描かれています。
それは現代の私たちが祭りを沿道で眺めるのとまったく同じで、大変な熱気が伝わってきます。
「二条城・寛永行幸」は江戸時代を通じて最大級とも言えるイベントであり、平和の世の到来をつげ、産業復興の象徴ともなりました。
さらには、この出来事をきっかけに多彩な芸術文化が花開き、「日本文化の故郷」とも言われる寛永文化の隆盛につながっていったのです。
江戸時代、最も京のまちが沸いた5日間を2026年、400年ぶりに復活させます。
(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)
二条城・寛永行幸とは
寛永行幸は、1626年(寛永3年)9月6日から10日まで、徳川将軍が天皇を二条城に招き、もてなした出来事です。それは大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してからたった11年後のことで、天皇と将軍の融和と平和の到来を世を知らしめるものでした。
5日間にわたる行幸では、善美を尽くした座敷飾り、贅沢な料理、舞楽、能楽、和歌や管弦の遊びなど、最上級のもてなしが繰り広げられました。
この行幸には後水尾天皇、その中宮で徳川秀忠の息女和子をはじめとする天皇の親族、そして朝廷の公家衆が随行、また幕府方では3代将軍徳川家光のもと、全国230の大名のうち実に8割近くが参加しました。
寛永行幸 5日間のスケジュールと饗応
(1626年9月6日~10日)
- 寛永行幸 1日目(1626年9月6日)
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当時の将軍・徳川家光の招きにより、「寛永文化を花開かせた中心人物」と言われる第108代天皇 後水尾天皇を中心に、御所から二条城まで9000人を超える空前絶後の大パレードが行われました。朝廷と幕府方が勢揃いし公武の融和が生まれただけでなく、沿道には日本各地から老若男女・身分を問わず様々な人々が詰め寄り、着飾り浮かれ騒ぐなど、異様ながら華々しく歴史的な出来事だったことが、「二条城行幸図屏風」からわかります。
天皇御一行の二条城到着後、行われたのは「晴れの御膳」「内々の御宴」。天皇が使う御膳具はすべて黄金で、その他の調度品も金銀取り交ぜてあつらえられるなど、「黄金の演出」が行われました。 - 寛永行幸 2日目(1626年9月7日)
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「朝の御膳」の後、将軍家光から天皇・中宮和子や天皇実母の中和門院、二人の姫宮に対し、金品や香木など大量の進物(銀だけでも合計5万5千両)が献上されました。
その後は公家衆並びに大名たちが残らず出仕し、舞楽が行われました。 - 寛永行幸 3日目(1626年9月8日)
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「朝の御膳」の後、大御所秀忠から前日と同様に進物(天皇には金2千両、中宮以下には合わせて銀2万5千両など)が献上されました。
その後は乗馬叡覧と蹴鞠興行。そして夜には和歌の会が行われ、笙(しょう)や篥(ひちりき)などの舞楽を楽しまれました。途中、後水尾天皇が二条城天守へ登楼されました。「徳川実紀」によれば、「この事俄なれば縁道にことごとく紅氈をしき、櫓狭間に御簾をたれ、しばらく四方を御遠望あり」とあります。ただ、この日は天気のせいで眺望は悪かったようです。 - 寛永行幸 4日目(1626年9月9日)
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「朝の御膳」の後、江戸時代には幕府の式楽とされた「猿楽(能)」が行われました。戦国の時代よりお祝い事には猿楽がつきものとされてきましたが、儀式に必ず付いてくるようになるのは寛永の頃からだと言われています。
- 寛永行幸 最終日(1626年9月10日)
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「七五三の御膳」にはじまり、大御所秀忠・将軍家光より天皇以下へ馬が進上されます。そして三献の儀では、天皇が秀忠・家光へ手ずから酒杯を賜る天酌(てんじゃく)があったとされています。お昼ごろ、天皇が改めて天守に登ります。前回眺望がよくなかったので、再度チャレンジされたようです(「先日は雨後雲霞ふかく、遠山の眺望分明ならざらしゆへなり」)。
午後に還幸(御所へ戻られること)され、5日間に及ぶ壮大な行事は幕を閉じました。
寛永文化の「人」
寛永行幸の主要人物を中心に、寛永行幸・寛永文化を知る上で欠かせない人物たちをご紹介します。
寛永文化の生みの親。文化人をつないだサロンの中心人物
後水尾天皇(1596~1680年 第108代天皇)
和歌や書道、華道など、学問・芸術に通じた文化人。修学院離宮を造営し、本阿弥光悦ら多くの文化人を庇護した。行幸からわずか3年後、幕府との関係が悪化したために34歳で譲位し、51年にわたり院政を行った。
朝廷と幕府をつなぐ姫は、ファッションリーダー
徳川和子(まさこ)(1607~1678年 中宮)
徳川秀忠の五女で、14歳で後水尾天皇に入内した。のちの東福門院。朝幕の関係調整に尽力。華美な意匠を好み、京都の呉服商・雁金屋にたくさんの着物を発注。注文した染物を手本にした「御所染」が流行した。
大御所として、幕府の基礎固めの総仕上げ!
徳川秀忠(1579~1632年 徳川幕府二代将軍)
武家諸法度、禁中並公家諸法度などを出して、幕府体制の確立に努めた。将軍位を45歳で家光にゆずり大御所となった後も政治の実権を握った。
「平和」な時代を担う若きリーダー
徳川家光(1604~1651年 徳川幕府三代将軍)
徳川秀忠の次男。諸大名や朝廷に厳しい規制を設ける武断政治で幕藩体制を完成させた。茶の湯を好み、大規模な茶会を催すこともあった
武士で、茶人で、作事の名人。寛永行幸の仕掛け人
小堀遠州(1579~1647年)
江戸幕府では伏見奉行を務める。多彩な才能を持ち、作事奉行として内裏や仙洞御所の造営、二条城の寛永の大改修を手がけ、二の丸庭園を改修した。茶人でもあり、遠州の茶は「綺麗さび」と称される。
松花堂昭乗 / 本阿弥光悦 / 金森宗和 / 板倉勝重 / 重宗 / 前田利常 / 細川三斎(忠興) / 沢庵宗彭 / 以心崇伝 / 鳳林承章 / 江月宗玩 / 俵屋宗達 / 本阿弥光悦 / 野々村仁清 / 狩野探幽 / 池坊専好(二代) / 千宗旦 / 烏丸光広
寛永行幸の「料理」
二条城で後水尾天皇をもてなしたのは当時の儀礼に欠かせない「本膳料理」です。大饗料理の儀礼的な部分と精進料理の技術が結びついた様式で酒を中心とした『献部』と食事に重きを置いた『膳部』で構成されていたとされています。
寛永行幸後の「文化」
後水尾天皇は学問を好み、茶の湯や立花などを極めた文化人でもありました。寛永期には後水尾天皇を中心に文化サロンがいくつも形成され、教養と美意識を磨き合いました。このように後水尾天皇が作り出した階層を超えたサロンで育まれた文化は、のちの日本文化に多大な影響を与えています。
- 茶の湯
- 華
- 書
- 画
- 建築
- きもの
- 陶芸
- 書物
- 香
- ......ほか
天皇を迎えるにふさわしい城へ!
「寛永の大改修」
二条城は慶長8(1603)年、徳川家康の命により築城されました。この〝慶長二条城〟は現在の二の丸御殿の部分のみで、堀は一重であったとされています。北西隅には5重の天守がありました。
二条城に後水尾天皇が行幸されるにあたり、大御所・徳川秀忠と3代将軍・家光は、〝慶長二条城〟をスケールアップさせました。敷地を西に拡げ、秀忠のための本丸御殿を建築し、堀を増設。二の丸御殿の南側には行幸御殿、中宮御殿などを建築しました。家康が築いた天守は淀城に移築され、代わりに伏見城から5重の天守が移されたと言われています。
家光の居所となったのが、現在も残る国宝二の丸御殿です。狩野派が描いた約千点にも及ぶ障壁画は、現在までその輝きを失っていません。このほか、二の丸御殿からも、行幸御殿からも美しく見えるように庭園を改修するなど、さまざまな趣向を凝らし、もてなし空間を完成させました。これが今、私たちが見ている二条城の原型です。
この寛永の大改修には2年もの歳月を要しましたが、そのプロデューサーとも言える人物が、大名で茶人、作庭家でもあった小堀遠州でした。
天保14(1843)年に作成されたとされる二条城の平面図。下に行幸御殿、右側に二の丸御殿、左に本丸御殿が描かれ、色分けがされています。緑色の部分は寛永行幸のために建てられ、その後移築するなどされた建物です。
こうして受け継がれた二条城。二の丸御殿は国内の城郭に残る唯一の将軍家の御殿として国宝に指定されています。また唐門や東・北の大手門、東南・西南隅櫓など、寛永の大改修以来の建造物が数多く残っており、平成6(1994)年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)
「二条城・寛永行幸
四百年祭」について
このように、さまざまな人や文化芸術が動き、交わり、二条城・寛永行幸は実施されました。さぞ大盛況で終えたことでしょう。
そこで私たちは、1626 年の寛永行幸より400年が経った2026年、「二条城・寛永行幸四百年祭」を開催したいと考えております。
今回の「二条城・寛永行幸四百年祭」では、さまざまな催しを企画しております。
- ● 寛永時代の文化や芸能をテーマとした行事の開催(当時の演出や技術を再現するほか、伝統文化・産業のこれからを討議する場づくりなど
- ● 二条城での饗応の再現の試み(料理を史料から再現するほか、寛永文化をテーマにした料理や菓子の公募など
- ● 寛永時代にまつわる展覧会の開催
- ● 寛永文化に関連する社寺などの特別公開の実施
- ● デジタル技術を使った、行幸当時の二条城(天守等)や行列の想定復元 など
~ 「二条城・寛永行幸四百年祭」
をよりよく知るために ~
【補足資料】
2016年開催「第三代将軍徳川家光による
後水尾天皇への饗応を再現」について
2016年に京都と東京で開催された「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」。2016年10月19日、二条城二の丸御殿、二の丸庭園において、その京都プログラムの一つ「第三代将軍徳川家光による後水尾天皇への饗応を再現」が行われ、【立花】【雅楽】【蹴鞠】【能楽】や【京菓子展示】【茶の湯】などが供せられました。公募により府民・市民1000人への公開も行われました。
二条城・寛永行幸四百年祭
クラウドファンディングにて
ご支援いただいた方々
(2024.5.1正午現在 / ご支援順)
- 久津間幹
- REDSTAR
- 磯部慎二
- しげ
- ドアラ
- Magara
- 筑紫貞徳
- Shinichi Sato
- tadao
- 湖太郎
- INOUE Osamu
- ちゃぐま
- Akiyoshi Kawamura
- naratakumi
- 玉緑 諷
- 大道 雪代
- いく
- 井上 年和
- Yuki Tsuji
- 高瀬倫子
- 坂本 龍一
- 福田千恵子
- 伴克亘
- 松林 佑典
- Satoko Enmei
- 山野 博子
- こま
- ずっほー
- yumi MIKI
- Kaz
- 18浜崎
- まる
- ISSO inc. 齋藤 秀雄
- よしにい
- しげちゃん
- しのじー
- 平田篤郎
- 梓川中将
- 原田京子
- クロネコ
- 桐浴 邦夫
- なおっち2002
- hn
- あずま
- ngtmgdns
- 安藤成司
- うえだよしゆき
- 宮野 公樹
- ゆず
- 有限会社アリカ
- ゆきゆき
- かとう ゆみこ
- MOCHI
- 生形剛
- 北村 信幸
- イトウメグミ
- ミモザのうらら
- 西村 元輝
- 中村 潤子
- ぱお
- いのっち
- SAKURA
- ゆか
- takubomay55
- Hirofumi Matsumoto
- まめちゃん
- tsuka3000
- llightkazz
- 瀧川栄一朗(DOM)
- SARUTOBI34
- 周すみん
- moka
- 宮崎雄二
- TM
- MASAYO
- なお
- ほりおか
- kaori
- おりおりおり
- 石川朋哉
実行団体- Living History KYOTO -
京都で育まれてきた歴史文化を生きた歴史として再現することにより、文化と文化財を未来へとつないでいくためのプロジェクトを行う団体です。寛永行幸から400年の節目となる2026年に「二条城・寛永行幸四百年祭」を開催するべく、各方面の有志により設立いたしました。今後さらに仲間を増やしていくことを考えています。
また、「二条城・寛永行幸四百年祭」を一過性のイベントとして終わらせるのではなく、2026年以降も継続して、毎年、二条城にて「寛永行幸祭」を行うことで、文化や文化財を未来へつなぐとともに、そのような事業を推進できる人材の育成に取り組みます。
取組の方向性・目的
- ◆ 2026年「二条城・寛永行幸四百年祭」の開催
- ◆ 2026年以降の「寛永行幸祭」の開催
- ◆ 文化や文化財を未来へつなぐための取り組みとその担い手の育成
構成メンバー(※代表以下は五十音順)
濱崎 加奈子[代表] | Living History in 京都・二条城協議会 会長/京都府立大学准教授/公益財団法人有斐斎弘道館館長 |
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梅原 和久 | 京都府職員/城郭愛好家 |
瓜生 朋美 | 株式会社文と編集の杜主宰/ライター・編集者 |
桜井 肖典 | 一般社団法人リリース 共同代表/構想家 |
佐藤 慎一 | コンテンツプランナー |
実方 葉子 | 公益財団法人泉屋博古館 学芸部長 |
歴史を知ることは、単に過去を知るというだけではなく、現代を深く理解することにつながります。そして、さらに未来を展望するとき、歴史から学ぶことがらは、とても大きいと思います。
2016年秋、二条城・二の丸御殿の大広間から眺めた小堀遠州の庭の美しさ、壮大さが忘れられません。それは、東京オリンピックの最初の催し「スポーツ・文化・ワールドフォーラム」において二条城に各国の来賓をお迎えした時のことでした。ふだんは閉め切っている座敷の戸を開き、庭を眺めた時の感激。この建物が建てられた当時の形に、ほんの少し近づけるだけで、これほどの感動をもたらすことができるとは。400年前の当時の人々の感嘆の声が聞こえるようでした。もちろん文化財保護の観点から「ほんの少し」のことがとても大変なことは言うまでもありません。しかしながら、それをすることで伝わる価値がどれほど大きいことか。
時の天皇をお迎えするために2年の歳月をかけて造られた建物や障壁画は、今では国宝や重要文化財となり、世界から注目を集める人類の遺産になっています。その「源」となった出来事とその意味を知ることは、現代を生きる私たちにとっても、大きな意義があります。
とはいえ、歴史的な出来事や文化を伝えていくことや、文化財を受け継いでいくことは容易ではありません。その大切さを知り、未来へとつなげていくためには、「価値を共有できる仕掛け」が必要です。また、一度だけのイベントにとどまらず、継続した取り組みが肝要です。そのため、あらゆるジャンルの伝統文化と産業が互いにつながりあい、高め合うことのできる祭りとして「二条城・寛永行幸四百年祭」を企画いたしました。
400年前、それまで戦い合っていた大名たちが協力し、二条城は大改修が行われました。この一大イベントを通して産業が活性化し、また行幸後も、たとえば後水尾天皇が多くの文化人と交流したことからさらなる芸術文化を生み、発展し、現代につながっています。「寛永は日本の故郷」と言えるのです。
400年の時を経て、新たに祭りを開催するにあたって「平和」と「文化」をキーワードにしたいと思います。私たちは、いま何を思い、未来に何を伝えるべきか。ぜひご一緒に考え、ご一緒に実現いたしましょう!
お問い合わせ
参考文献
『京都・二条城と寛永文化』(Living History in 京都・二条城協議会編 2022年 青幻舎)
『二条城行幸図屏風の世界』(泉屋博古館編 2014年 サビア)
「寛永茶会」イベントパンフレット(Living History in 京都・二条城協議会 2020年)
「徳川実紀」
「寛永行幸記」