学ぶ・知る
寛永文化講座①「菊と葵―寛永文化の背景」村井康彦氏
2024/09/07
“二眼レフ”で京都の歴史を見る
今日は後水尾天皇とその中宮だった徳川和子を通して、江戸初期に開花した寛永文化の背景についてお話ししたいと思います。和子は、徳川家康の孫娘、秀忠の娘ですが、最初の頃、私はそのよみを「徳川かずこ」と思い込み、「かずこ」なら幕末の和宮と対応するように公武合体という役割を果たした女性と受け止め、もっぱら「かずこ」「かずこ」と言っておりました。その後正しくは「まさこ」と読むと知り、いささか違和感を覚えたものでした。今日も口癖で「かずこ」と申すかもしれませんが、聞き流してください。
ところで今からざっと400年前、後水尾天皇の二条城行幸がありました。御所(今の京都御所)から、中立売通を西へ進み、堀川通へ出て南下し、二条城の東大手門を入り、唐門を経て、庭園の南側に設けられた小堀遠州が用意しました行幸御殿に入って、それから五日間、遊宴の日々が持たれました。二条城が最も華やかでにぎやかな時間であったと思います。
京都御所と二条城。私も早くから京都の歴史、あるいは広く日本の歴史と言ってもよいかもしれませんが、それを理解するには、京都御所と二条城という二つの目、いってみれば二眼レフ、つまり複眼で理解する必要があると考えてまいりました。
菊と葵
朝廷と幕府のことを述べるテーマに、菊と葵という紋様を表題といたしました。「江戸初期の朝廷と幕府」とか、あるいは文字通り「京都御所と二条城」でよかったものを、なぜ象徴的な、それぞれのシンボルである紋様を表に出したかと申しますと、若い時分に訪れたあるお寺で見た、この紋様の印象が大変強烈であったからです。
そのお寺は光雲寺といい、南禅寺の北にあります。観光寺院ではありませんから、今でも一般にはそれほど知られていないと思いますが、一日そのお寺へ恩師の林屋辰三郎先生のお誘いを受けて訪れました。
当時、林屋先生は寛永文化について関心を持たれており、その中心人物の後水尾天皇の妃であった東福門院ゆかりのお寺であるということで、訪れられたのです。
拝見した遺品のなかに、「東福門院念持舎利塔」がありました。
厨子に入っていて、その厨子の扉を左右に広げたその瞬間、目に飛び込んできた—まさにそんな感じでした—のが、台座の朱色と、その朱色の中に描かれた二種の紋様—菊を中にその左右に配された葵の紋様でした。その瞬間、先生と私、「ああ」「おお」と言って感嘆の声を上げたと思います。
光雲寺蔵そしてこの紋様は、もう語らずとも即座に、込められた意味がわかったのでした。菊、つまり天皇家、朝廷を葵、つまり徳川家、幕府が守っている—まさに朝廷と幕府との融和の姿を示している—。言葉は無用でした。
この舎利塔の写真は、その後いろいろ紹介されて知られるようになり、江戸初期のことを書いた本にしばしば紹介されるようになったと思います。
ところが、この紋様については後日談がございます。それから何年か経って、光雲寺で寺の歴史を編纂されました。『東福門院と光雲寺』と題されたご本で、光雲寺に伝えられた大事な史料を翻刻し、読み下しもされ、写真もたくさん収められた本でした。むろんその中には舎利塔の写真が紹介されていました。
写真がそれです。今までお話しした舎利塔と違ったところがあるのがおわかりでしょうか。
舎利塔の台座の部分を見ていただきますと、菊と葵が一つずつしか描かれてない。これを見まして、もうびっくりしました。
東福門院が、日夜拝んでおられた舎利塔は、二つあったのだろうか、以前見たものと別のものがあったのだろうかと思えたのです。そこでお寺にお電話をしましたところ、「いや、違うものではなく、同じものです」と。ただ、「台座の表と裏というか片面に以前見ていただいたのとは別の紋様が描かれているんです」ということでした。
それで納得できたのですが、さてそうなると、同じ舎利塔の台座の表と裏に、二つの紋様が違った描き方がされていることになる。これをどう理解すればよいのだろうか、新しい悩みが生まれてきました。
二つ並べてある方が、両者が仲よくしている姿というふうに見ることができましょう。お寺でもそう思われたのでしょう。三つではなくて、二つの紋様の方を紹介されたのだと思います。そうすると三つ描かれたのは何であったのか。
菊を中にして、葵がこれをしっかり守っている姿と見ることができる一方、葵が菊をがんじがらめにしている形と見ることもできないではない。あまりいいイメージで理解されないようなものに思えてきました。

東福門院御所時 仏舎利 厨子入り(光明皇后伝来) 光雲寺蔵
後水尾天皇と東福門院和子
後陽成天皇も多いですが、後水尾天皇にはたくさんの子どもがおりました。当然その母親、つまり後水尾天皇が寵愛した女性もたくさんおり、生まれた皇子女は実に33人に及んでいます。
その大部分は天皇が位を退いた後のことですが、東福門院は自分以外の女性との間に次々と子どもが生まれているのを知って、心中穏やかではなかったことでしょう。そんなとき東福門院は、あの台座を前後に動かし、紋様を二つから三つに切りかえた—。皆さんはどういうふうにお思いでしょうか。
話は前後しますが、この仏舎利塔の後に見せていただいたのが過去帳でした。その過去帳を収めた箱の底に紙の包みがあり、「門院様宝髪」と書かれておりまして、それを恐る恐る開けましたところ、一房の髪があった。もう見た瞬間、女性の髪だと分かる細い髪で、ちょっと赤茶けた色をしておりました。東福門院の存在がにわかに身近なものに思えるようになった瞬間でした。
どなたか小説が好きな方は、二つの紋様、三つの紋様をめぐって東福門院を描かれたらいかがでしょう。そういうことがありましたことで、私にとっては菊と葵の紋様というのが甚だ強い印象を持って記憶に残っておりました。それでこのお話を聞いたときに、即座に私は菊と葵というテーマでお話をしようと思ったのでした。
光雲寺–東福門院和子との関わり
なぜ東福門院ゆかりのお寺であるのか、ひと言申し添えておきましょう。
東福門院は改めて申すまでもなく天皇の中宮、一般的には皇后、つまり正妻ですから、亡くなりますと、夫の後水尾天皇と同様、皇室の御寺(ルビ:みてら)といわれた泉涌寺に葬られることになる。実際に葬られているわけですが、徳川家の娘であるというのは、やはりその中では特異な存在であったのでしょう。
東福門院は自分が亡くなった後、泉涌寺に葬られるだけではなくて、自分のお寺をつくって菩提所とし、後の世も自分を弔ってほしいという思いを抱くようになったと思います。
そういう願いを抱いておりましたところ、南禅寺の僧で、のちに中興の祖、中興の禅師といわれるようになった英中禅師が、大阪の四天王寺の近くにあって廃れていた光雲寺を京都で再興したいと考えていることを知り、それならばこの事業を援助することで、自分のお寺を建てることができるのではないかと思い、寺の再興を支援しました。
東福門院は、何といったって(徳川の娘)。家許にも頼み経済的な援助をしてできたのが光雲寺だったというわけです。
そして、このお寺の創建にあたり、新たに釈迦三尊像がつくられて、これを光雲寺の本尊とし、それとは別に、東福門院が宮中の御所で日夜拝んでいたといわれ、運慶の作とされている釈迦像も光雲寺に寄せられ安置されました。いずれも現存しております。例の舎利塔などは、東福門院の没後、遺品として菩提寺に納められたのでしょう。
そういうふうにして寺が整ってきましたが、東福門院のそばで、宮中で生活を共にして、両親(後水尾天皇と東福門院)のお世話をしていた娘の女三宮が、亡くなります。東福門院よりも二年前のことでした。そこで東福門院は女三宮の葬儀をこの光雲寺で行い、その墓所を境内に営みました。現在そのお墓は本堂の後ろの方にございます。
境内のたたずまいも清澄なお寺です。一度機会がありましたら訪れてごらんになったらと思います。

東福門院座像 光雲寺蔵
元和偃武~後水尾天皇の即位
さて、菊と葵をめぐって時間をとってしまいましたが、次の話題に移りましょう。お配りした資料の二番目に京都御所と二条城という見出しで四つばかりの話題を記し、その最初に「元和偃武(げんなげんぶ)」という文字を書いております。「偃」とは、おさめるとか無くするとかというふうな意味で、元和偃武とは元和になって武を捨てる、無くする、治める、つまり平和になったという意味です。
大坂夏の陣が終わって、豊臣氏が滅び、事実上大きな戦はなくなります。戦国乱世が終止符を打たれたと言ってよいと思います。その後においても島原の乱があったりで、決して平穏無事であったわけではありませんが、しかし、戦国乱世の時代がここで終わったという認識があって、これを元和偃武と呼んでいます。
「徳川の平和」というふうな言い方をする人もあります。
しかし、この元和偃武になってしばらくの間というのは、実は朝廷と幕府との間は激しく対立する、そしてまた仲良くなる、という起伏の激しかった時期。それも、これほど激しかった時期はなかったのではないかと思えるほどの一時期でした。
簡単に触れておきますと、後陽成天皇の譲位というのは、後陽成天皇は、弟の八条宮智仁親王、あの桂離宮をつくりました八条宮智仁親王を気に入っていて、位を譲りたかったのです。
ところが、家康が待ったをかけた、だめだと言ったんです。といいますのは、この智仁親王は秀吉の時代に秀吉の猶子になったことがありました。「猶子」とは、「なおこのごとし」。つまり養子ほどの立場ではありませんが、いろいろなことの面倒を見る親子関係を「猶子」と言っております。そして秀吉はゆくゆくは関白にでもしたいと思っていた。しかし家康にしてみれば、秀吉の子どもになったような人を天皇にするなど認められなかったのです。それで禁止した。
後陽成天皇は憤懣やる方なかったんですけれども、これに従わざるを得ない。そして、即位したのが政仁親王と呼ばれていた後水尾天皇。この天皇の時代は、そういうことから始まったのでした。
徳川和子の入内
そして徳川和子の入内ということになるのですが、これもすんなりとはいかなかった。和子の入内は、家康の構想だったようですが、秀忠にとっては自分の愛娘。この入内を家康の考え方に従って進めたいと思った。朝廷と婚姻関係を結ぶのは、政略結婚そのものですが、その進め方もスケジュールも決まり、秀忠は京都へのぼり、二条城に入ります。
ところが、そういう時によくないニュースが秀忠の耳に入った。自分の婿にしようと思っている人に、別の女性との間に子どもが生まれた。秀忠は激怒し、この婚姻を取りやめてしまいます。
むろん放置できることではありません。早速朝幕の間で折衝が始まります。その任に当たったのが片や藤堂高虎。家康の甚だ深い信任を得ていた高虎と、後水尾天皇の弟にあたります近衛信尋でした。
二人の間は親子ほどの年齢差がありましたが、折衝を重ねる間に厚い信頼関係が生まれたといわれています。
そんなことで婚姻は再開され、東福門院は江戸城から京都へ上り、二条城に入ります。その行列の賑やかさを描いたのが「東福門院入内行幸図絵巻」で、その中の一番立派な牛車で、屋根には葵がたくさん描かれておりますのが、東福門院がのっていた牛車です。
東福門院は、入内しましてからたくさんの子どもを生んでおりますが、男の子はみな早死にしています。
家康、秀忠としては、男子が成長して即位すれば、徳川家の血を引く天皇が即位することになる。それを望んでいたのですが、それは叶いませんでした。
明正天皇の誕生
話は前後しますが、入内後、最初に生まれたのは女の子でした。興子内親王といわれた皇女で、のちに述べますような事情で後水尾天皇が位を退いた後、即位して、明正天皇となります。最後の女帝は孝謙(重祚して称徳)天皇でしたから、奈良時代以来、絶えて久しかった女帝ですね。それを明正天皇と申しましたのは、天智天皇の娘で、文武天皇の後に立ちました元明天皇とその娘元正天皇。いずれも女帝が二代続いて、文武の子、首皇子(おびとのおうじ)こと聖武天皇が大きくなるのを待った、つなぎの役割を果たした女帝ですが、その元明天皇と元正天皇の下の文字をとり明-正と連ねて明正天皇という名前にしました。
この呼称は、結局叶えられることはないのですが、この女帝のあと男帝の立つことを願ってのものではなかったでしょうか。
話は前後しますが、先ほど保留いたしました一件、後水尾天皇がこの明正女帝に譲(退)位した経緯についても触れておきたいと思います。それは二条城行幸の華やかなひととき、めでたいひとときの直後にまた事件が起きたのです。勅許紫衣事件です。
紫衣事件
幕府は「禁中並びに公家諸法度」「寺院諸法度」「武家諸法度」を次々と制定するのですが、寺院諸法度が特に問題になりましたのは、大徳寺や妙心寺の偉い坊さんに与える「紫衣」についてで、これを与えるにあたっては、予め幕府に連絡し承認を得ておくものと決められていたのを、後水尾天皇は従来の慣例だからといって、独断で大徳寺や妙心寺の偉い坊さんたちに紫衣を与えていた。
それを問題にしたのが諸法度を定めた金地院崇伝でした。南禅寺の僧ですが、家康らの信任を得て権勢を誇っていた僧です。
大徳寺の坊さんたち、有名な沢庵和尚、江月和尚らは、幕府のやり方に断固反対をして抗議を申し入れるのですが流罪に処せられてしまう。天皇も鋭い追及を受け進退きわまってしまいます。しかも綸言汗の如し―すなわち汗が元に戻らないのと同様、天皇の言葉も取り消すことはできないとされてきました。
追い込まれた天皇にはもう最後の手段―天皇の位を退くこと—しか残されておりませんでした。後水尾天皇は周囲に相談せずに、ある日突如として「私は退位する」と。東福門院にも相談せずに退位したといわれています。
それが後水尾天皇の譲位、というより退位であった。それが二条城行幸の喜びの直後に起こっていた。
本当に明と暗、起伏の激しい時代でした。そしてこの時代に、朝廷と幕府との関係というものの有り様が、洗いざらいに出されたと言ったら大げさですが、本質的なものが全部出てきたと言ってもよいと思います。そういう起伏・明暗を経て、やがて平穏が訪れてくるという経過をたどった。それが元和から寛永という時代であったこと、二条城の行幸はそういう中で見られた行事であったということを理解しておく必要があるだろうと思います。
二条城の位置
二条城について考えられることをお話してみたいと思います。京中図を見ていただきますと、その中央北にありました大内裏―その内部には、百官といわれたたくさんの役所が内裏をぐるり取り囲んでいて、ここが国家統治の中枢でした—の個所に「内野」と書かれています。「うちの」と読みます。
当時はもう内裏もなくなり、役所もなくなって野原になっていたからです。人が亡くなりますとそこへ葬られ卒塔婆が立てられるような葬送地になっていたり、あるいは牛馬が放牧されるような場所になっていた。この場所に行けば人生の無常を感ずると言われるような場所になっておりました。
その内野を利用して北の方につくったのが秀吉の聚楽第ですが、二条城を家康は東南の部分につくった。家康には考えがあったようです。
と申しますのは、内野の南側にありますのが神泉苑。記録の上では西暦800年に登場します。つまり、平安京造営の早い時期につくられたことがわかりますが、この神泉苑はいくら日照りが続いても涸れることのない湧水池でした。それから東の方、冷然院(のち冷泉院と改める)があった場所です。冷然院というのは南の方にあった朱雀院ともども薬子の変―桓武天皇の息子の平城天皇が都を奈良に戻そうとした事件―を教訓として平城天皇の弟、嵯峨天皇がつくった上皇のための御所(後院(ごいん)と申しました)です。特にこの冷然院は四丁分を占めておりましたが、神泉苑と同様に水の涸れない場所でした。この辺りが京都盆地の中でも一番水の豊かな場所であったと言ってよさそうです。
家康はそれに目をつけたんだと思います。神泉苑を取り込み、冷然院も取り込んで、その水を城の堀に使うことを考えたのだと思います。
更に申せば、堀川も東側の堀の補助的な役割を果たしたと思います。水を考慮して作られた二条城。それが平城(ひらじろ)であっても大事な要件であったと思います。
二条城築城の影響
ところで、この二条城が造られたことによってどういう事態が生じたでしょうか。京都の市街図を見ますと、大内裏の東側に沿って南北に走っていた大宮通が二条城によって切断されたように思えるのです。
京中の大事な道路といえば、真ん中を通っている朱雀大路で、大変広い幅を持っていた道路ですが、しかし北に上がっていけば大内裏に突き当たるということで、平安時代以来、一般の庶民が日常的に利用するというような道ではなかった。それよりも南北に通じている、この大宮通が平安初期以来、京中の一番大事な道として利用されていたと言ってよいと思います。
したがって、例えば平家の時代に、清盛が妻の時子と共に住んだ屋敷の西八条邸は、八条通の北に広大な敷地を持っていたといわれているのですが、なぜ西八条邸といわれたかというと、この大宮大路に接して、その西側にあったからです。
大宮大路が基準とされたのは、大宮大路の重要さを物語っています。その大宮大路が二条城によって断ち切られてしまった—それが事実なら、市民にとって甚だ迷惑なことであったでしょう。
しかし大内裏が内野になっていたこの時代には、これに接する大宮大路もすでに道路の機能を失っていた、つまり二条城造営以前のことで、築城のためではなかったのです。それよりも、二条城に接する堀川通が和子入内の道とされ、後水尾天皇行幸路であったことを契機に、あらたな京中南北大路になっていく——二条城の造営が、京都の都市構造の変化変容をもたらす要因となることに注目すべきでありましょう。
二条城の北には京都所司代が堀川通に沿って営まれ、板倉勝重・重宗親子が早い時期の京都所司代の役人として有名ですが、ここが京都の市政その他全般を統括することになる。端的に言って、二条城とその周辺は、京都市民にとっては重苦しい存在であったことはたしかでしょう。
寛永文化の諸相
後水尾天皇は、18年天皇の位にあり、退位したのち51年間上皇の位にありました。それは、「忍」の字を書いて耐えることもあった天皇時代と違い、万事に自由でした。半世紀を超える、その長い上皇時代があったからこそ、寛永文化も花開いたといえます。
そして、たくさんの子どもがいて、兄弟がいた。寺に入り門跡になったものも少なくありません。言ってみれば門跡文化の時代でした。こういう人的なエネルギーがあったということ、そして何といいましても、禁中並びに公家諸法度により、公家たちが学問第一であることを求められたばかりでなく、江戸幕府から家格に応じた経済的な援助を受けていたことも大きい。元禄享保の時代に下りますが、近衞家熙(予楽院)が今ほどいい時代はないと言ったのも当然のことでした。もっとも、それは上層貴族についてだけでしたが。
宮廷文化はこのような江戸幕府の方針と無縁ではなかったのです。そして大事なことは、それがいろいろな形で上層町衆たちの世界に広がっていったことでした。本阿弥光悦とか、千宗旦とか、そういう人たちを通して街に広がっていくという、そのことが寛永文化の大事な要素だというふうに思います。そして、それがやがて江戸に移っていく。
江戸に話が移ったところで、二条城のその後について触れておきましょう。二条城を造った家康はもとより秀忠に家光、この三代は実にしばしば二条城を使っています。そこへ公家たちもしょっちゅう出向いており、公武の接触もありましたが、四代将軍は江戸城で将軍宣下を受けています。三代は伏見城で将軍になり、二条城で披露の宴を持っているのですが、四代目からはもう二条城でお披露目するということもなくなります。二条城の使われ方は、三代で終わったとは申しませんが、華やかな時代は終わったと言ってよいと思います。
話を戻せば、寛永の二条城行幸を万事取り仕切ったのは小堀遠州でした。実に有能な役人であったばかりでなく、当代きっての一流文化人でした。その小堀遠州の美意識というのが「きれいさび」でした。そういえば金森宗和の指導で陶器をつくった野々村仁清の焼き物も色絵が特徴でしたが、そのなりといい、色彩といい、大変優美な陶磁でした。そういう優美な世界が寛永文化の特徴であったように思います。それはまさしく王朝文化を受け入れながら新たな展開を遂げた江戸初期の文化の姿でした。
「きれいさび」は、京都と江戸との、朝廷と幕府との対立と妥協の中で開花した寛永文化の美意識だったのです。
(2024年9月7日京都ブライトンホテルにて講演 主催:Living History KYOTO)
《プロフィール》
村井康彦氏(国際日本文化研究センター名誉教授)
1930年山口県生まれ。京都大学文学部大学院博士課程修了。日本古代・中世史専攻。京都女子大学、国際日本文化研究センター、滋賀県立大学、京都造形芸術大学で教授、ついで京都市美術館館長を歴任。現在は国際日本文化研究センター・滋賀県立大学名誉教授、財団法人京都市芸術文化協会顧問。著書に『古代日本の宮都を歩く』(ちくま新書/2023年)、「藤原定家『明月記』の世界」(岩波新書/2020年)ほか多数。
(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)