二条城・寛永行幸とは
寛永行幸は、1626年(寛永3年)9月6日から10日まで、徳川将軍が天皇を二条城に招き、もてなした出来事です。それは大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してからたった11年後のことで、天皇と将軍の融和と平和の到来を世を知らしめるものでした。
5日間にわたる行幸では、善美を尽くした座敷飾り、贅沢な料理、舞楽、能楽、和歌や管弦の遊びなど、最上級のもてなしが繰り広げられました。
この行幸には後水尾天皇、その中宮で徳川秀忠の息女和子をはじめとする天皇の親族、そして朝廷の公家衆が随行、また幕府方では3代将軍徳川家光のもと、全国230の大名のうち実に8割近くが参加しました。
寛永行幸 5日間のスケジュールと饗応
(1626年9月6日~10日)
- 寛永行幸 1日目(1626年9月6日)
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当時の将軍・徳川家光の招きにより、「寛永文化を花開かせた中心人物」と言われる第108代天皇 後水尾天皇を中心に、御所から二条城まで9000人を超える空前絶後の大パレードが行われました。朝廷と幕府方が勢揃いし公武の融和が生まれただけでなく、沿道には日本各地から老若男女・身分を問わず様々な人々が詰め寄り、着飾り浮かれ騒ぐなど、異様ながら華々しく歴史的な出来事だったことが、「二条城行幸図屏風」からわかります。
天皇御一行の二条城到着後、行われたのは「晴れの御膳」「内々の御宴」。天皇が使う御膳具はすべて黄金で、その他の調度品も金銀取り交ぜてあつらえられるなど、「黄金の演出」が行われました。「二条城行幸図屏風」江戸時代
(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)(部分) - 寛永行幸 2日目(1626年9月7日)
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「朝の御膳」の後、将軍家光から天皇・中宮和子や天皇実母の中和門院、二人の姫宮に対し、金品や香木など大量の進物(銀だけでも合計5万5千両)が献上されました。
その後は公家衆並びに大名たちが残らず出仕し、舞楽が行われました。 - 寛永行幸 3日目(1626年9月8日)
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「朝の御膳」の後、大御所秀忠から前日と同様に進物(天皇には金2千両、中宮以下には合わせて銀2万5千両など)が献上されました。
その後は乗馬叡覧と蹴鞠興行。そして夜には和歌の会が行われ、笙(しょう)や篥(ひちりき)などの舞楽を楽しまれました。途中、後水尾天皇が二条城天守へ登楼されました。「徳川実紀」によれば、「この事俄なれば縁道にことごとく紅氈をしき、櫓狭間に御簾をたれ、しばらく四方を御遠望あり」とあります。ただ、この日は天気のせいで眺望は悪かったようです。2016年に行われた「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」にて。
二条城での蹴鞠の再現 撮影=大道雪代 - 寛永行幸 4日目(1626年9月9日)
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「朝の御膳」の後、江戸時代には幕府の式楽とされた「猿楽(能)」が行われました。戦国の時代よりお祝い事には猿楽がつきものとされてきましたが、儀式に必ず付いてくるようになるのは寛永の頃からだと言われています。
- 寛永行幸 最終日(1626年9月10日)
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「七五三の御膳」にはじまり、大御所秀忠・将軍家光より天皇以下へ馬が進上されます。そして三献の儀では、天皇が秀忠・家光へ手ずから酒杯を賜る天酌(てんじゃく)があったとされています。お昼ごろ、天皇が改めて天守に登ります。前回眺望がよくなかったので、再度チャレンジされたようです(「先日は雨後雲霞ふかく、遠山の眺望分明ならざらしゆへなり」)。
午後に還幸(御所へ戻られること)され、5日間に及ぶ壮大な行事は幕を閉じました。2016年「スポーツ・文化・ワールド・フォーラム」にて。
撮影=大道雪代
寛永文化の「人」
寛永行幸の主要人物を中心に、寛永行幸・寛永文化を知る上で欠かせない人物たちをご紹介します。
寛永文化の生みの親。文化人をつないだサロンの中心人物
後水尾天皇(1596~1680年 第108代天皇)
和歌や書道、華道など、学問・芸術に通じた文化人。修学院離宮を造営し、本阿弥光悦ら多くの文化人を庇護した。行幸からわずか3年後、幕府との関係が悪化したために34歳で譲位し、51年にわたり院政を行った。
朝廷と幕府をつなぐ姫は、ファッションリーダー
徳川和子(まさこ)(1607~1678年 中宮)
徳川秀忠の五女で、14歳で後水尾天皇に入内した。のちの東福門院。朝幕の関係調整に尽力。華美な意匠を好み、京都の呉服商・雁金屋にたくさんの着物を発注。注文した染物を手本にした「御所染」が流行した。
大御所として、幕府の基礎固めの総仕上げ!
徳川秀忠(1579~1632年 徳川幕府二代将軍)
武家諸法度、禁中並公家諸法度などを出して、幕府体制の確立に努めた。将軍位を45歳で家光にゆずり大御所となった後も政治の実権を握った。
「平和」な時代を担う若きリーダー
徳川家光(1604~1651年 徳川幕府三代将軍)
徳川秀忠の次男。諸大名や朝廷に厳しい規制を設ける武断政治で幕藩体制を完成させた。茶の湯を好み、大規模な茶会を催すこともあった
武士で、茶人で、作事の名人。寛永行幸の仕掛け人
小堀遠州(1579~1647年)
江戸幕府では伏見奉行を務める。多彩な才能を持ち、作事奉行として内裏や仙洞御所の造営、二条城の寛永の大改修を手がけ、二の丸庭園を改修した。茶人でもあり、遠州の茶は「綺麗さび」と称される。
松花堂昭乗 / 本阿弥光悦 / 金森宗和 / 板倉勝重 / 重宗 / 前田利常 / 細川三斎(忠興) / 沢庵宗彭 / 以心崇伝 / 鳳林承章 / 江月宗玩 / 俵屋宗達 / 本阿弥光悦 / 野々村仁清 / 狩野探幽 / 池坊専好(二代) / 千宗旦 / 烏丸光広
寛永行幸の「料理」
二条城で後水尾天皇をもてなしたのは当時の儀礼に欠かせない「本膳料理」です。大饗料理の儀礼的な部分と精進料理の技術が結びついた様式で酒を中心とした『献部』と食事に重きを置いた『膳部』で構成されていたとされています。
寛永行幸後の「文化」
後水尾天皇は学問を好み、茶の湯や立花などを極めた文化人でもありました。寛永期には後水尾天皇を中心に文化サロンがいくつも形成され、教養と美意識を磨き合いました。このように後水尾天皇が作り出した階層を超えたサロンで育まれた文化は、のちの日本文化に多大な影響を与えています。
- 茶の湯
- 華
- 書
- 画
- 建築
- きもの
- 陶芸
- 書物
- 香
- ......ほか

(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)(部分)
天皇を迎えるにふさわしい城へ!
「寛永の大改修」
二条城は慶長8(1603)年、徳川家康の命により築城されました。この〝慶長二条城〟は現在の二の丸御殿の部分のみで、堀は一重であったとされています。北西隅には5重の天守がありました。
二条城に後水尾天皇が行幸されるにあたり、大御所・徳川秀忠と3代将軍・家光は、〝慶長二条城〟をスケールアップさせました。敷地を西に拡げ、秀忠のための本丸御殿を建築し、堀を増設。二の丸御殿の南側には行幸御殿、中宮御殿などを建築しました。家康が築いた天守は淀城に移築され、代わりに伏見城から5重の天守が移されたと言われています。
家光の居所となったのが、現在も残る国宝二の丸御殿です。狩野派が描いた約千点にも及ぶ障壁画は、現在までその輝きを失っていません。このほか、二の丸御殿からも、行幸御殿からも美しく見えるように庭園を改修するなど、さまざまな趣向を凝らし、もてなし空間を完成させました。これが今、私たちが見ている二条城の原型です。
この寛永の大改修には2年もの歳月を要しましたが、そのプロデューサーとも言える人物が、大名で茶人、作庭家でもあった小堀遠州でした。

天保14(1843)年に作成されたとされる二条城の平面図。下に行幸御殿、右側に二の丸御殿、左に本丸御殿が描かれ、色分けがされています。緑色の部分は寛永行幸のために建てられ、その後移築するなどされた建物です。
こうして受け継がれた二条城。二の丸御殿は国内の城郭に残る唯一の将軍家の御殿として国宝に指定されています。また唐門や東・北の大手門、東南・西南隅櫓など、寛永の大改修以来の建造物が数多く残っており、平成6(1994)年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。

(京都市指定文化財 泉屋博古館蔵)